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影山正治「三上卓を弔ふ」

 (昭和四十七年)六月二十二日、鈴木正男君を伴って伊豆の修善寺に赴き、駅前で待ち合わせた道友、磯川正吉、山田俊男両君の案内で、最近とみに有名になった隣町中伊豆町なる萬城(ばんじょう)の滝を観た。「萬城」は、新しい命名で、「萬」は、天城連山の主峰萬次郎・萬三郎からとり、「城」は、天城からとったのだと云ふ。
 僕としては、今年二月から三月にかけて奥伊豆にゐた時、山田君の案内で河津七滝のうち、大滝・出合滝・初景滝・釜滝などを観た関係もあって、萬城の滝そのものを観たかったのだが、実は主眼目はそこにあったのではなかった。

 昨年十月二十六日に、多年の友、三上卓兄が伊豆の旅先で心臓麻庫の発作を起して急死した時、その密葬や本葬に参列して、側近の諸君から、所は中伊豆町の萬城の滝のほとりで、旅館萬城苑を出て駐車場まで歩いてゆく途中、突然倒れてそのまま息を引きとってしまった由を聞いて、あはれさがしみじみと身に沁み他日、縁あらば是非その現地に立ってねんごろに弔ってあげたいものだと考へたわけであったが、この春の伊豆滞在中に地元の磯川・山田両君から詳細に現地の状況を聞くに及んでいよいよその思ひを切にし、遂に六月の萬城の滝、見学となったわけであった。
 萬城の滝は、雄大さは無いが、人里から遠く離れた、まだ処女地にも近い山中清寂の環境にかこまれて居り、すぐ滝のほとりに鮮緑あざやかな山葵(わさび)田があったりして、いかにも伊豆の滝らしい、こじんまりして情緒豊かな滝であった。

 山田君は、隣町修善寺町役場の税務課長をして居り、滝のすぐ近くに最近出来たばかりのたった一軒の小旅館萬城苑の主人とも極く親しい様子で、先き頃、この歌人課長から萬城の滝の歌二首を詠んでもらったらしく、明日にでも滝壷のそばへ建てるといふその歌を書いた立派な看板を見せてくれた。我々の来訪について、山田君からよくよく話を聞いてゐたらしく、御主人が「是非とも、三上先生のお泊りになられた部屋で、三上先生の御最後の御様子をお話申上げたい」と強く申されるので、その御好意を受けることにした。
※     
 東京での話では、故人は、こよなくこの萬城の滝を愛し、何回も萬城苑に宿泊したやうに聞いたが、事実は全く初めてであったと云ふ。昨年十月二十五日の午後、静岡県下の知人の案内で、下田の友人を訪ねてゆく途中でやって来て一泊したものらしく、前の晩、数名の人々が自転車で引揚げていったあと、大変明るく、元気に、うちとけて大陸帰りの御主人と語り合ったとのことであった。
 「翌日は午前中ゆっくりされましたので、何か記念に御揮毫をと申上げましたところ、非常に心よくお引受け下され、丁度持ち合せの画仙紙がござゐませんでしたので、障子紙を差し出しますと、丁度あなた様の坐って居られますそのあたりに、紙をひろげて、一気に書いて下さったのがこの軸でござゐます。折よく印を御持参になって居られたさうで、その場でちゃんと印も丁寧に押して下さいました。亡くなられます三時間ほど前のことでした。」
 と語りながら、主人が床に掛けてくれた故人の軸を拝見した。そこには、ただ円(まる)が一つだけ、すばらしい筆勢で書きおさめられてゐた。そして、その下に、例の独得の筆法で「三上卓」と署名がしてあった。円(まる)には、三上流の哲学をふくめて書いたわけであらうが、死の三時間前に三上卓の書いた絶筆が大きな円(まる)一つであったことは面白い。まさに「大団円」の表明とこそ云ふべきであらう。

 なほ、御主人が申されるには、
 「前の晩にも、その日の朝にも、御食事の時、新鮮な山葵(わさび)の根をすったり、葉っぱを煮たりしてお出ししましたところ、大変にお気に召したらしく、是非葉っぱのついた取りたての山葵(わさび)を用意してくれ、東京へ持って帰りたいと申されますので、御用意してお渡し申上げましたところ、やがて御案内の方々が自動車でおみえになり、しばらくお話の上で、その山葵(わさび)だけを御自身で大事さうにお持ちになって元気に御出発なされ、もう一度滝を見て、山道を登って駐車場へ向はれましたのです。間もなく、お見送りの使用人が血相変へてかけこんできて、三上先生が倒れられたことを知らせました。そのまま走って行ってみますと、山道を登りきったところに倒れて居られました。脳溢血なのか心臓麻庫なのかわかりませんが、もうすでに虫の息でした。お附きの方々と打合せ、自動車をとばして町の医者に来てもらひましたが全然駄目でした。何とも全く夢のやうな出来ごとでござゐました。」とのことであった。

 我々は、三上兄が元気で一泊して、元気に最後の揮毫をしたといふ部屋を辞去して、三上兄がさうしたやうに、あらためてもう一度萬城の滝を見た上で、三上兄が歩いた山道を踏んで上まで登り、三上兄がここで倒れて息を引きとったといふ現場に至ってねんごろに故人を弔った。取りたての、新鮮な、葉っぱのついた生山葵(なまわさび)を手にもったままであったといふのがいやさらにあはれさを深めた。
 やがて、そこから道路の向ふ側にある駐車場に至り、その一角に整地されてゐる「三上卓追悼碑」の建立予定地を見た。そこには去る四月二十九日天長の嘉節当日、地鎮祭に当って建てられた由の標柱が建ってゐた。碑は皇居の方に向って建てられ、碑には、萬城苑で静岡県下の知人に書き与へたといふ。 「野火赤く人渾身のなやみあり」
の一句を刻む由である。「渾身のなやみ」を胸底に秘めながら、遠く妻子を離れ、丈夫三上卓は旅に死んでいったわけである。
 帰途、ひとりひそかに、三上卓作るところの「青年日本の歌」を汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ、巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ、混濁の世に我立てば、義憤に燃えて血潮湧く。権門上に驕れども、国を憂ふる誠なく……」と口づさみつつ、しきりに涙のあふれくだるのをとどめがたかった。(四十七・九・四)

(「道の友」第266号、昭和47年9月10日発行)

 


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