明治38年3月22日 | 佐賀県佐賀郡本庄村(現在の佐賀市本庄)に生る。厳父新氏は佐賀郡視学として郷党子弟の教育につとめていたが、後に朝鮮に渡り、羅南の北鮮日々新聞社を経営していた。幼くして母に死別し、昔気質の祖母よし子刀自に育てられた。 |
大正11年3月 | 県立佐賀中学を卒業し、4月、海軍兵学校に入学。 |
大正15年3月 | 海軍兵学校を卒業、少尉候補生となる。 |
昭和2年10月1日 | 海軍少尉に任官。 |
昭和4年11月 | 海軍中尉に進級。 |
昭和5年5月 | 「青年日本の歌」を佐世保軍港にて作る。 |
昭和7年1月 | 上海事変の勃発とともに、海防艦「出雲」に乗って出征、第1遣外艦隊司令部付陸戦隊第3大隊本部参謀として活躍、鉄軍第19路軍と戦う。同4月中旬、凱旋し16日付で一等巡洋艦「妙高」乗組に栄転す。 |
昭和7年5月15日 | 五・一五事件に中心人物として参加、第1組を指揮して首相官邸を襲い、犬養毅首相を狙撃、即死させた。この後、直ちに東京憲兵隊に自首す。 |
昭和8年7月24日 | 横須賀海軍々法会議法廷で第1回公判が開かれ、以来、公判28回に及ぶ。 |
昭和8年11月9日 | 反乱罪により禁錮15年(求刑は死刑)の判決を受け、小菅刑務所に下獄。 |
昭和12年2月8日~10日 | 祖母よし子刀自(86才)が重態となり、3日間、刑の執行を停止され帰郷、病床を見舞う。 |
昭和13年7月7日 | 古賀清志、黒岩勇らと共に仮釈放の恩典に浴し出所。 |
昭和14年 | 陸軍大佐宇都宮三千雄三女わかと結婚、16年1月長男忠(まこと)出生。 |
昭和15年9月 | 新体制運動の中核として、革新運動分野の青年中堅団体を網羅し「皇道翼賛青年聯盟」を結成、その委員長に就任。 |
昭和18年 | 翼賛壮年団中央本部理事、組織部長となり、本土決戦体制に備える。 |
昭和21年2月28日 | 公職追放令により追放される。同年3月、青年を集め所沢に共働農場を設立。 |
昭和24年8月17日 | 維新運動の資金獲得のため「海烈号事件」を首謀し、米軍CIDに逮捕され、第8軍軍事裁判において禁錮5年の判決を受ける。 |
昭和28年4月2日 | 参議院選挙に立候補したが惜敗した。 |
昭和36年12月12日 | 国会占拠によるクーデター未遂のいわゆる「三無事件」に連坐したが、不起訴処分となった。 |
昭和46年2月 | インドネシア、ベトナムなど東南アジアを歴訪、南ベトナム大統領グェン・バン・チューの実兄グェン・バン・キヨーとアジア復興等につき協議し、具体的活動に着手した。 |
昭和46年10月25日 | 伊豆へ旅行中、心筋硬塞にて急死、享年66才。 |