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「五・一五事件」『読売新聞』平成25年7月13日付

 ◆海軍青年将校 首相を殺害
 昭和恐慌と満州事変後の1932(昭和7)年5月15日、海軍の青年将校らが首相の犬養毅(いぬかいつよし)を殺害した。これによって戦前政党内閣は終焉(しゅうえん)を迎える。この軍人たちのテロによる首相暗殺事件の裁判は、犯人側に同情が集まるという、正邪逆転の異様な社会現象を生んだ。(文中敬称略)
 ■「話せばわかる」
 32(昭和7)年5月15日は日曜日だった。夕食時、海軍の三上卓中尉、山岸宏中尉、黒岩勇予備役少尉ら4人の将校と陸軍士官候補生5人が、二手に分かれ首相官邸に押し入った。巡査の避難の勧めにも耳を貸さず、犬養毅=人物抄=は「会って話せばわかる」と動じなかった。
 「何か言い残すことはないか」と問う三上に、犬養が何か言いかけた時、山岸が「問答無用。撃て!」と叫んだ。黒岩が引き金を引き、三上も撃ち込んだ。銃弾を頭部などに受けた犬養は、多量の血を流しながらまだ意識があった。「たばこに火をつけてくれ」と発して、「今の若い者をもう一度呼んでこい、話して聞かせてやる」と言った。犬養は手当てのかいなく死亡した。
 この日、首相官邸に乱入した三上らのグループとは別に、海軍の古賀清志(きよし)中尉、中村義雄中尉の各グループは、陸軍士官候補生など7人とともに、牧野伸顕(のぶあき)内大臣官邸や警視庁、政友会本部などを襲撃した。しかし、損害はわずかで、古賀、三上らは憲兵隊に出頭した。
 このほか、橘孝三郎=写真=門下の愛郷塾(あいきょうじゅく)の「農民決死隊」7人が、同夜、東京を暗闇にして混乱させようと、変電所6か所を襲い設備を破壊しようとした。だが、これも空振りに終わって逮捕された。事件直前に満州(現中国東北部)に渡って潜伏していた塾頭の橘は、ハルビン憲兵隊に出頭した。
 ■血盟団の「一人一殺」
 満州事変(31年9月)の前後、テロや未遂のクーデター事件が頻発していた。
 31年3月、橋本欣五郎(きんごろう)中佐を中心とする「桜会」急進派を実行部隊に、陸軍首脳部もかかわったクーデター未遂事件が発覚。橋本らは10月に再度、首相や要人テロを伴うクーデターを計画したが、未発に終わった。
 それでも、日蓮宗の僧侶で、後に血盟団(けつめいだん)事件を起こす井上日召(にっしょう)=写真=のグループや、海軍青年将校運動をしていた藤井斉(ひとし)海軍中尉、古賀らは、国家改造をあきらめなかった。
 32年1月、井上と古賀らが会合し、要人へのテロ決行を確認。井上は、その第一段階として「一人一殺」を提案した。2月9日夜、遊説中の前蔵相・井上準之助が小沼正に、3月5日には三井銀行玄関前で三井合名理事長の団琢磨(たくま)が菱沼五郎に射殺された。金解禁政策をリードした井上と、ドル買いで巨富を得た財閥が標的になった。
 ともに血盟団員の犯行で、指導者の井上は出頭、逮捕された。事件は一応落着したが、司直の手がすぐに及ばなかった古賀らは、次の決起へ準備を進めた。
 ■愛郷塾の農民決死隊
 古賀は32年3月中旬、愛郷塾の活動に限界を感じていた橘に対し、「血盟団事件だけでは世の中は変わらない」と、参加を求めた。橘は強いためらいをみせたが、農民の参加により、軍が愛国の至誠に基づき、国民の前衛として立ち上がったことを国民に示す(法廷供述)として決断。塾生らによる「農民決死隊」を編成した。古賀は後に、陸海軍と民間が一体となって動き、「苦しんでいる農民がやむにやまれず蜂起したという態勢が必要だった」と述べている。
 古賀らは、陸軍青年将校にも決起を求めた。しかし、陸軍側は応じず、士官候補生が加わるにとどまった。陸軍予備役の西田税(みつぎ)は、陸軍の参加を拒んだ元凶として、事件当日、血盟団員に狙撃され重傷を負う。
 事件計画は、内閣転覆という目標の割には、武器も拳銃や手投げ弾のみという杜撰(ずさん)なものだった。古賀は後日、「計画の不備だの連絡不足にいたってはまことに慚愧(ざんき)の至りで、本来ならば同志に対し切腹して謝すべきである」と回想している。
 しかし、テロの続発は政財界人に衝撃を与えた。井上日召はテロについて、「支配階級全部に、誰それが襲われたという恐怖心が起こる、それの恐怖によって彼らは何とか自らの途(みち)を打開して行くだろう」と語った。
 井上の狙いは的中した。元老の西園寺公望は静岡県の別邸「坐漁荘(ざぎょそう)」で、近くに人影がチラリとでも見えると庭に出ないほど用心するようになった。
 政府や宮中の要人の多くは、テロの恐怖に直面し、政治判断を狂わせていくことになる。
 ◆助命嘆願運動 軽い量刑
 ■陸相も犯行に理解
 事件の全体像を国民が知るのは、33(昭和8)年5月17日、司法、陸軍、海軍の3省が事件概要を公表し、報道規制が解かれてからだ。陸海相は同日、談話を発表し、荒木貞夫陸相は「純真なる青年が、かくの如(ごと)き挙措(きょそ)に出でた心情について涙なきを得ない」と理解を示した。
 裁判は7月から始まった。軍籍を除かれた士官候補生は、襟章のない制服が師団から新調された。海軍将校も純白の新しい軍服を身にまとった。中村中尉の公判中、戦闘機3機が公判廷の屋根を引きはがす勢いで飛行し、中村を激励した。
 軍法会議で、被告らは「我々が捨て石となれば」と涙ながらに訴え、自らは極刑を望んだ。海軍の山岸中尉は、「国政を危うくする特権階級はたたきつぶす必要がある」と主張した。
 陸軍士官候補生の篠原市之助は「衷心から犬養閣下にすまないと思う」としつつ、「対立政党の腐敗、財閥の利権独占、東北地方の不作を放置すれば、国家にとってこれより大なる危険はない」と強調した。
 同じ士官候補生の西川武敏は、「東北農民の悲惨な状況を聞き、その子弟が満州事変に動員された時、私は深く決心するところがあった」と供述した。
 裁判官役の判士(軍人)らも、時に、公然と涙を流し、新聞は「体を震わせて泣いていた」と、肯定的に報じた。
 愛郷塾の「農民決死隊」が事件に加わっていたことも、国民の同情論に火を付けた。当時の日本は、職業を持つ約3000万人のうち約1400万人が農民で、兵士の圧倒的多数が農村出身者だった。
 裁判を契機に減刑嘆願運動が広がった。特別高等警察(特高)の内部報告書によれば、初めは盛り上がらなかった運動も、公判での士官候補生らの「純真無垢(むく)な」姿が報道されると、「社会各層に異常なる刺激を与え」た。運動の過熱ぶりに驚いた内務省は、全国知事に運動取り締まりを通知した。
 ●混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く--三上中尉が30(昭和5)年5月、一晩で詞を書き上げたという「昭和維新の歌」が公判で紹介されるや、それは全国に知れ渡る。
 ■死刑求刑に非難集中
 9月11日、古賀ら海軍3将校に対する死刑求刑で、運動は小学生や女性などにも急拡大。独身の被告への花嫁志願も相次ぎ、助命を請う若い女性の自殺も起きた。最終的には、1000通を超す血書が届き、嘆願書は100万を超えた。
 死刑を求刑した海軍側の山本孝治検察官(法務官)は、陸軍側の匂坂(さきさか)春平検察官(同)の論告に比べ、犯行の違法性を鋭く突いた。山本は、軍人の政治関与を戒める「軍人訓戒」や「憲法義解」などを引き合いに出して誤りを説いた。しかし、その山本には「涙なき論告」として非難が殺到した。論告を承認した山田三郎・海軍省法務局長は33年10月、辞職を余儀なくされる。山本も心労で病死する。
 犬養首相の孫で作家の犬養道子は、当時、学校で「軍人にやられたんだから非国民の孫だ」と言われ、肩身の狭い思いをしたと、後に打ち明けている。
 反乱罪や反乱予備罪に問われた海軍青年将校10人は、禁錮15年~同1年・執行猶予2年(求刑・死刑~禁錮3年)の判決が下った。陸軍士官候補生11人は禁錮4年(同・禁錮8年)。
 一方、爆発物取締罰則違反・殺人及び殺人未遂罪などに問われた民間の20人に対する1審判決は、橘が無期懲役(同・無期懲役)、他は懲役15年~3年6月。軍人に比べて重刑だった。拳銃や資金を与えて活動を援助した国家社会主義者の大川周明は控訴審で禁錮5年だった。
 大角岑生(おおすみみねお)海相は引責辞任したが、荒木陸相は辞任せず、犬養内閣の次の斎藤実(まこと)内閣でも陸相に就任した。軍人テロへの温情判決は重大な禍根を残す。
 ◆政党内閣 テロで終幕
 ■「満州国」で軍と軋轢
 犬養毅は31(昭和6)年12月、若槻礼次郎首相の後継として政友会単独内閣を組織すると、蔵相に高橋是清を起用し、金輸出を再禁止した。
 同時に、軍部の統制確保を期した。犬養は就任早々、元帥・上原勇作への手紙で「何事も直接に軍隊を率いるものが連結して事を起こしさえすれば、上官は遂に事後承諾を与えるものと信じ」ていると、陸軍を痛烈に批判した。
 その一方、政界屈指の中国通で知られた犬養は、組閣直後、腹心の萱野長知(かやのながとも)を密使として上海に送り、中国側と接触させた。犬養の収拾案は、満州への中国の宗主権を認め、日中共同の新政権を作るという、軍部にとっては認めがたいものだった。
 この案は、犬養と意見のあわなかった書記官長の森恪の妨害で立ち消えとなる。
 だが、関東軍の動きは止(や)まず、犬養内閣は32年3月、満州国の建国を基本的に容認する。それでも、犬養は、国際社会の反発を考慮して、満州国の正式承認に応じようとせず、昭和天皇に対しても、こうした考えを伝えていた。陸相の荒木貞夫には「満州国のことをやったら承知せん」とクギを刺していた。
 同年2月の衆院選挙で、犬養政友会は、300議席を超す大勝を果たしていた。民意は犬養の側にあったが、満州をめぐる犬養と陸軍との軋轢(あつれき)は深まるばかりだった。
 ■軍部、首相指名に圧力
 「ポスト犬養」は、犬養がテロによる犠牲だったことを考慮すると、同じ政友会の後継総裁が就くのが自然だった。政友会は、党内調整を進め、最大派閥を率いる鈴木喜三郎が総裁に就任、もう一人の総裁候補だった床次竹二郎は身を引くことが、5月17日に決まった。
 単独内閣を目指す政友会に「待った」をかけたのは、軍部だった。
 5月19日、元老・西園寺公望が次期首相を天皇に推薦するため、居宅のあった静岡から列車で上京した。西園寺はその時点で、後継には鈴木を考えていたとされる。
 しかし、途中駅の沼津から秦真次憲兵司令官(中将)が列車に乗り込んできた。秦は面会を果たすため、サーベルを床にたたきつけ、「今は国家非常の時ですぞ」と迫ったという。
 秦だけでなく、陸軍は政党内閣になる場合は、「第二、第三の事件を繰り返すに至る」「陸相に就任するものはおそらくなく、組閣難に陥る」といった、脅しととれる考えを、様々なルートで西園寺らに伝えていた。
 軍部の意中の人物は、対中強硬派で知られる枢密院副議長の平沼騏一郎だった。しかし、西園寺が東京に着いた19日夕、侍従長の鈴木貫太郎を通じ、次期首相選定にあたっての天皇の「ご希望」が伝えられた。そこには、「ファッショに近きものは絶対に不可なり」などと平和外交路線が示されており、平沼は候補から消えた。
 政党と軍部の思惑がいずれも空回りする中、西園寺は22日、妥協策として、「第三者たる公平な有力者」と見られた海軍出身の斎藤実を指名した。斎藤の挙国一致内閣が発足する前日、西園寺は談話を発表した。
 「対軍人策についても、実は我々にも手落ちあり。(中略)軍縮の機運さかんとなり、ひたすらに経費節約をはかり、やや軍人を抑圧しすぎたるきらいなきにあらず」
 海軍の抵抗を抑え、ロンドン軍縮条約を締結した浜口雄幸内閣を国民が強く支持するなど、政党内閣の全盛期からわずか2年。政党政治への信頼は冷め果て、西園寺ですら、軍部の意向に配慮せざるをえなくなっていた。
 政党内閣は終戦まで、ついに復活することなく終わる。(遠藤剛、岩城択、川上修、牛島康太)
 〈視点〉
 ◆青年将校に「焦燥感」
 ◇近代思想史に詳しい評論家・長山靖生氏
 「5・15事件の首謀者の個人名はあまり有名になっていない。事件を計画し、引き起こした青年将校らは軍法会議で裁かれたが、刑は軽く、責任を取っていないためだ。個人名が挙げられることが多いのは、むしろ民間の愛郷塾主宰者、橘孝三郎だ。橘は、都市部と農村の格差が広がり、疲弊する農村に強い危機感を持っていた。しかし、クーデターを引き起こそうとは、元々考えていなかった。引くに引けずに参加を決意したという見方が正しいだろう。
 このため、橘の事件への関与は消極的だった。青年将校らはその姿勢を見透かしており、逃げ出して密告するのを防ぐため、橘を実行部隊の門下生たちと切り離し、事件直前に満州に行かせる手立てをとった。
 青年将校らの動機は、軍縮が進めば国家は滅ぶという切迫感からだったとされるが、内実は軍部が権益を失い、自分たちの将来の“ポスト”を失いかねない状況への焦燥感だった。苦境に陥っていた軍人と農民が、自分たちが立ち上がれば、次々に決起する人たちが出るという幻想を抱いて邁進(まいしん)した、そんな事件だった」
 〈人物抄〉
 ◆普通選挙実現に情熱
 ◇犬養毅
 1855(安政2)年、備中国(現・岡山県)の庄屋に生まれた。慶応義塾在学中、学費捻出のため寄稿していた郵便報知新聞の従軍記者として西南戦争に赴き、迫真の筆致で人気を博した。退社後も、新聞業界との縁は切れず、「東海経済新報」や「秋田日報」の経営に関わった▼90(明治23)年、初の衆院選で岡山3区から立候補して当選。98(明治31)年の大隈重信内閣時代に文相で入閣を果たす。第1次護憲運動では、尾崎行雄と共に先頭に立ち、2人は「憲政の神様」と並び称された。普通選挙実現に情熱を傾け、1920(大正9)年、選挙権、被選挙権ともに20歳以上とする革新的な案を発表した▼国民党や、後身の革新倶楽部での小政党暮らしが長く、普選法が成立した25(大正14)年、政友会との合流を果たし、政界引退を表明した。しかし、引退を惜しむ地元・岡山の支援者は、本人の意向をよそに、その後も犬養を当選させ続けた。信州で静養していた29(昭和4)年、急死した田中義一の後継として政友会総裁に担ぎ出され、31(昭和6)年に犬養内閣を発足させたが、翌年、5・15事件で暗殺される。享年76歳。
 ◇クリップボード
 〈橘孝三郎と愛郷塾〉
 橘は1893(明治26)年、茨城県生まれ。第一高等学校に入学するが、立身出世主義などの風潮に反発して中退し、故郷で一から農場経営を始める。大地主義、兄弟主義、勤労主義を柱とする「農本主義」を唱え、1931年に「自営的農村勤労学校愛郷塾」を開き、農村を改造するために農村青年の教育にあたった。この間、井上日召と同志となり、海軍青年将校らとも交流し、急進思想に傾いた。無期懲役の判決を受けたが、恩赦により、40(昭和15)年に出獄した。
 〈井上日召〉
 1886(明治19)年、群馬県生まれ。東洋協会専門学校(現・拓殖大)中退後、南満州鉄道(満鉄)に入社。陸軍の諜報(ちょうほう)活動に携わり、1921年に帰国。日蓮宗の僧侶となり、29年から茨城県磯浜町(現・大洗町)の立正護国堂の住職に。のちに血盟団事件を起こす農村青年が門下に入り、海軍青年将校らとも知り合う。
 支配階級の腐敗や農村の窮乏に強く怒り、国体観念と信仰が強く結びついて「一人一殺」の国家改造を決意した。事件の裁判で無期懲役の判決を受けたが、40年に仮出所した。
 〈五・一五事件の裁判〉
 陸海軍、民間あわせて計41人の被告が裁かれた。事件は予審の後、陸海軍人は各軍法会議で、民間人は東京地裁で原則公開で行われた。
 公判は1933年7月から順次始まり、1審判決は、同年9月、11月、34年2月に言い渡された。ただ、恩赦があり、40年までにすべての受刑者が出所している。
      ◇
 主な参考文献は次の通り。
 長山靖生『テロとユートピア』▽保阪正康『五・一五事件』▽北博昭「血盟団事件 五・一五事件」▽原秀男ほか編『検察秘録 五・一五事件』▽粉川幸男『昭和の蹉跌』▽中野雅夫『五・一五事件 消された真実』▽時事新報社『五・一五事件陸海軍大公判記』▽井上寿一『戦前昭和の国家構想』▽加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀』▽筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』▽川田稔『満州事変と政党政治』▽橋川文三「アジア解放の夢 日本の百年7」▽勝田龍夫『重臣たちの昭和史』▽今井清一、高橋正衛『現代史資料 国家主義運動』▽原田熊雄『西園寺公と政局』▽岩淵辰雄『犬養毅』


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