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「日本国民に檄す」

日本国民よ!
刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。
政権党利に盲ひたる政党と之に結託して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧制日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と……
日本は今や斯くの如き錯綜せる堕落の渕に既に死なんとしてゐる。
革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。
国民よ!武器を執って立て、今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何物もない、 国民諸君よ!
天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ、祖国日本を守れ!
而して
陛下聖明の下、建国の精神に皈り、国民自治の大精神に徹して人材を登用し、朗らかな維新日本を建設せよ。
民衆よ!
この建設を念願しつつ先づ破壊だ!
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!
偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す。
吾等は日本の現状を哭して、赤手世に魁けて諸君と共に昭和維新の矩火を点ぜんとするもの。
素より現存する左傾、右傾何れの団体にも属せぬ、日本の興亡は、吾等「国民前衛隊」決行の成否に非ずして吾等の精神を持して蹶起する国民諸君の実行力如何に懸る。起て!起って真の日本を建設せよ!
昭和七年五月
海軍青年将校
*五・一五事件決行の前日、昭和7年5月14日に三上卓が起草

第2回大夢祭

 昭和50年10月26日、岐阜市・木の本公民館において、第2回大夢祭が開催された。開会の辞は、大会顧問として野村秋介氏が述べられた。武道養正館の望月稔館長が「武道とは何か」と題して記念講演された。望月館長は嘉納治五郎門下で、戦前モンゴルにおいて特務機関長や政府教育顧問・行政官・参事官を歴任されたことのある、柔道・剣道・合気道など総数四〇段を超える武道の大家である。
 閉会の辞は大会顧問として末次正宏氏が述べられた。
 出席者の主な顔ぶれは、平野三郎(岐阜県知事)、上松陽助(岐阜市長)、野田卯一(衆議院議員)、古田好(自民党県連会長)、船戸行雄(県議会議員)、毛呂清輝(新勢力社主幹)、河澄政照(愛豊同志会総裁)、郷宗二(郷鉄工所会長)、柴田實(建国青年同盟会長)、神尾憲伊(大日本生産党名古屋支部長)、摺建寿隆(愛国桜会代表)、岡義人(日本青年連盟東海本部長)、日吉文亮(円成禅寺住職)、渡辺宏隆(東香寺住職)、星野健(常盤神社宮司)の諸氏など約130名が集った。
(『大愚記』より)

第1回大夢祭

 昭和49(1974)年10月30日、第1回大夢祭が岐阜市の木の本公民館において開催された。
 三上卓先生の御遺志を踏襲し、その悲願達成のため精進すべく先生の若き日の号である「大夢」を頂き「大夢祭」と命名、期日も御命日である10月25日に近い日を選んだ。

第1回大夢祭。右から加藤義明師範、花房東洋、奈須和夫・城空会会長

 当日は午後より雨が降り出し、来訪者の出足が危ぶまれたが、関係者・来賓など合わせて約150名が参加、野村茂氏(東洋義塾岐阜道場長)の司会で国歌斉唱、皇居遥拝の後、地元出身のいずみ俊(テイチクレコード)が三上先生の作られた「青年日本の歌」を奉唱、全員三上先生を偲んで黙祷を捧げた。そして、皇道会の山本一誠会長代行が開会の辞を述べ、続いて野田卯一衆議院議員、日本文化研究所の大井清所長、松野幸泰衆議院議員代理の尾藤義昭氏(今の関市長)が来賓を代表して祝辞を述べられた。
 そして、片岡駿先生が「日本再建の道」と題して記念講演をされた。
 片岡先生は日本の現状を憂い、「諸悪の因占領憲法を無効とし、欽定憲法を優先する以外に日本再建の道はない。しかし、それを占領憲法の中であぐらをかいている自民党政府に要求しても無駄である。だから地方議会において憲法復元の決議をし、地方自治体を通じて国民の世論を国会に反映させるならば必ず実現できる」ということを、岡山や熊本の成功例を挙げて説かれた。
 続いて加藤義明首席師範が顧問を務める名城大学空手部・城空会(会長・奈須和夫)の協力を得て、道場生による空手の試割りなどの演武や模範試合と進み、盛会裡に第1回大夢祭の幕を閉じた。
 閉会の辞を生長の家時代にお世話になった野尻稔先生に大会顧問としてお願いした。野尻先生に、私が未知の地、岐阜に来て四年間でここまでやれたことを大いに賞讃して頂いたのは、正直うれしかった。しかし、天界におられる三上先生に大夢祭を通して、取り敢えずのご奉告をできたことを一応の区切りとし、まだまだこれからやらねばならぬことを覚悟し、さらに意を強くしたものである。
(『大愚記』より)

第45回(平成30年度)大夢祭 祭文

 薫風天地に満つる皐月半ば十五日、新緑の色さやかなるここ岐阜護國神社の招魂祭場に、五・一五関係先歿者、維新運動の先覚者各位の御霊を招きまつりませまつリ、慎しみ畏み、御霊鎮めの祭典を厳修致します。
 英霊よ、乞い願わくば、髣髴として我等の祈りと 誓約を享け給え。
 謹みて昭和七年五月十五日、永田町の総理官邸において悲しくも斃れ給いし木堂犬養毅之命、官邸護衛の警視庁巡査・田中五郎之命、並びに昭和維新を目指して蹶起した三上卓之命をはじめとする維新運動の先覚者の英霊を招きまつりおろがみまつる。
 五・一五事件が行われた昭和七年五月十五日。この日この時、日本の歴史に刻まれた一条の精神、一片の赤心は、なお凛然として存すべきであります。ここに私どもは、唯々ひたすらに頭を垂れて、我が誠の足らざりしことを、嘆き悲しむのであります。
 今日この日、このところにおいて、諸英霊を祀るに当り、ただ祈るところは、皇御民の不滅の精神をもって幽明ともに相結び、天翔ける御霊もいま生きる私どもも、恩讐を超え、生死を超え、等しく、維新の実現と祖國日本の恢復とアジア大同の悲願のために、真心の限りを捧げ、命の限りを尽すことであります。
 昭和三十二年五月十五日の招魂祭において、三上卓之命が振り返った通り、五・一五事件当時、庶民の祈りも空しく、政党、重臣、官僚、財界、軍閥が互いに結托して、朝憲を紊乱し、共産主義思想が蔓延して國體を破却せんとし、農山漁村、国民大衆の窮乏は言語に絶し、国を挙げて深刻な社会不安の中に沈潜しておりました。米英の金権勢力とソ連の革命謀略の挟み撃ちにあい、国防は危殆に頻し、軍隊は国軍の自覚を失い、まさに民族の生命、窮して留まるところを知りませんでした。
 この国家内外の危機を根底より打開して民族の生氣を恢復するために、三上卓之命を始めとする先達は敢えて直接行動に訴えんとしたのです。その志を支えたものは、皇統守護のために身を挺する楠公精神であり、君民一体の國體の理想を忘却した「幕府的権力」を討たんとする道義心であり、それは大化の改新、建武の中興、明治維新の原動力でもありました。
 三上卓之命達の乞い希いし昭和維新運動は貫徹されないまま祖國は大東亜戦争に突入し、万策尽きて降伏を余儀なくされました。占領体制によって民族的自覚、國體に対する誇りを喪失し、植民地的属領国家の様相を呈しました。この状況を打破せんとして、再び多くの先覚者たちが身を挺して立ち上がりました。昭和三十五年十月十二日に浅沼稲次郎之命を誅し、同年十一月二日に自決した山口二矢烈士。昭和四十五年十一月二十五日に自衛隊決起を呼びかけた末自決した三島由紀夫烈士と森田必勝烈士。平成五年十月二十日、朝日新聞の反日的姿勢を糺すために、壮絶な自決を遂げた野村秋介烈士。さらに多くの先達が維新運動に挺身して参りました。
 謹みてこれら義挙を敢行して今は亡き先達、これにつらなる有縁無縁の数え難き多くの先輩同志同胞の御霊を招きまつりおろがみまつる。
 戦後七十三年。いまなお占領憲法の破棄、自主防衛の確立は実現されず、我が国は真の独立国家としての地位を恢復できないまま沈没の危機に直面しています。外交の主体性を発揮できないまま、激動の東アジア情勢に翻弄され続けています。国内を見れば、個人主義、利己主義が蔓延し、新自由主義経済の浸透によって破壊された社稷は今、更なる危機に陥ろうとしています。日本民族の道統、果してどこにありやと深憂に堪えません。
 祖國再建の初一念、断じて忘るべからず。三上卓之命の悲願の継承、道統の実践は、我々の責務であり、使命であります。ここに私どもは日本民族・アジア諸民族の名誉と生命にかけて、期するところを先人烈士の御霊の前に誓約いたします。
 もしも祖國日本の中に「幕府的亡国勢力」が存在するならば、私どもは断じてこれを討ちます。アジアの中に、そして世界の中に萬世のため開かるべき太平を阻害する国があるならば、私どもは誓ってこれと闘います。 私どもは生死を超えて、あくまでも國體を守り、国賊と闘わざるを得ません。
 そして、さざれ石の巌となりて苔むすまでも、正しきもの、誠のもの、麗しきもの、悲しきもの、遥かなるもの、人も国も相共に仲良く結び合い、励まし合い、助け合って、祖國日本とアジアの精神を護り抜かねばなりません。
  益良夫のかなしき命つみ重ね 積み重ね守る 大和島根を
 今日中今、いまし達の御前に、私どもがお約束申し上げ得ることは、唯々この事あるのみであります。
 真心の道一筋に大御心を奉じ、戦歿諸霊の悲願を抱きしめ、祖國再建、アジア開眼のうめ草に捧げ尽さんとする私どもの願いと誓約を乞い願はくば、御霊達よ、永久に守らせ給え、この志を果たさしめ給え。
 もしも、この誓願に背き、仇し心を抱き、汚き道に踏み迷う者一人でもいれば、たちどころに天罰を下し給え、天誅を加え給え。
 今や、皇御國の 常永久の命に帰一し給える御霊たちを、恭々しく祭文奉る。乞い願わくば、天かけり國かけりまして、莞として享け給え。
祭主 愚斎・坪内隆彦謹み畏みて申す。

  平成卅年五月十五日

三上卓先生の号「大夢」と真木和泉の「大夢記」

 三上先生が『高山彦九郎』を著し、竹内式部ら崎門学派の皇政復古思想に注目した事実は、徳川時代の勤皇運動と昭和維新運動の連続性を示すものとして注目すべきである。
 同時に、三上先生が、彦九郎の志を継がんとした真木和泉の『大夢記』について、「大夢記には、攘夷の名を仮つた堂々たる討幕方略が明記されて居る」と高く評価していたことは極めて重大である。
 真木は、嘉永五年(一八五二)年に、久留米藩の藩政改革の建白したが失敗、以後十年にわたり、山梔窩での塾居生活を余儀なくされた。この時期に真木が書いた倒幕の戦略書が「大夢記」である。山口宗之氏は『真木和泉』において、次のように書いている。
 「『大夢記』はこの年(安政五年=引用者)十月三日したためられたが、天皇みずから幕府親征の兵をあげて東征の途にのぼり、箱根において幕吏を問責し、大老以下に切腹を命じ、幼将軍(家茂)を甲駿の地に移し、親王を安東大将軍として江戸城に居らしめ、大いに更始の政を行なうということを骨子としたものであり、露骨に討幕の具体的経綸をのべたものとして注目される」
 三上先生が「大夢」と号したのは、自らの昭和維新運動を真木の志の継承と位置づけていたからに違いない。