花房東洋「天下動乱の予兆を前にして」(平成2年2月)

平成二年の眼目・大嘗祭
 昨年からはじまった国内外の変動は止まるところを知らない。事態はあれよあれよとばかりにこれまで不落と思えていた鉄壁があっさり崩壊している。いままで常識とされていた判断基準が殆んど通用しないかの状況変化である。
 昨年は昭和天皇の崩御により平成という元号が新帝の御聴許の次第を経ないで定まったものの、昭和の御代は厳かに終った。歴史上稀にみる海外からの弔問使を迎えた御大喪は、地球社会における日本の自らなる来るべき地位を示した。と同時に先帝の崩御は迫りくる混迷の時代の兆しかのようだ。
 新帝は今秋に定まった即位の大礼とくに大嘗祭の重儀を経て、万世一系の天皇に文字通りおなりになる。わが国柄において最大の重儀である大嘗祭は、皇室の公事として行われることになった。国事行為でという議が今日でも根強いが、いずれにせよ巌修されることは慶賀に堪えない。それはなぜか。
 大嘗祭は新帝が神々と一体になられて天津日嗣になられる祭儀である。それは永遠の瑞々しい生命の連綿とした継承の確認である。個々人の生命は生れ成長し壮を迎えてのち老い衰え死を迎える。だが永遠の大生命は大嘗祭を経ることによって新帝の玉体に現世化される。いわば青年日本の改まりの一世一回限りの確証なのだ。日本の国柄の根底を貫く雅びにして豪毅な大流が、我々市民の民草に実感できる僥倖である。平成二年を迎えて今日あることをありがたいと思う。
 だが、唯ありがたいと思うだけでは純乎たる日本人になりえない。ありがたしと思う半面で今此処に生を亨けていることの重さを痛感する。
 即位の大礼を迎える年にあたって、内外の情勢を展望しつつ、我等のなすべきことを明らかにしたい。大生命の蘇生(よみがえり)の年にあるにかかわらず、周囲の状況は老朽化の目障わりになってきているのも確かだからだ。

内外情勢の激動
 一枚岩を誇り第三世界アジア、アフリカ、ラテン・アメリカに着々と橋頭堡を築き勢力を拡大していくかにみえた中ソ共産圏は、一九一七年のロシア革命からはじまり七〇余年にして破綻の兆しである。
 中共は天安門事件で未来を担う青年学生を圧殺し、ソ連はバルト三国をはじめ連邦内の各共和国が統一より離脱の方向に転じ、それにモスクワ中央は有効な手をうてず、アゼルバイジャンでは内戦に至った。東欧はベルリンの壁の解体から、各国共産党の党名変更、自由選挙と止まるところを知らない。
 共産圏の激変に第三世界の動きはかすんでしまっている。だが第三世界各国は石油産出国ですら累積赤字で悩んでおり、国際通貨ドルの米国の貿易・財政赤字も天文学的な数字である。経済的にどうやら自立しているのは国連の旧敵国条項で今日なお国際法上は問題国となっている日本と西ドイツ、次いで台湾(中華民国)。その台湾も正統中国を担う国民党に対して台湾自決を支持する台独気運が深く進行し、政治的には予断を許さない。
 超大国米ソ両国はマルタ会談で引き続いて世界をウォッカ・コーラで支配していくことの確認はしたものの、経済的には日独両国の利用の下に支配秩序の存続を図っている。当分その狙いは有効であろう。日本が経済大国と思い込んではいても、政治的には余りに未熟で拙劣なため、米ソのヤルタ秘密協定によって作られた戦後秩序の延命という思惑は生き永らえる。
 総選挙における最大の焦点が消費税、それによって野党第一党が参院選挙で躍進する。そうした政治状況では徐々に迫ってきている国難の実態は実感の埒外、今日の日本の政情こそ戦後民主主義の来るべくして来た終末状況である。じり貧の後向きの一歩後退二歩前進が継続していく。気がついたときには手遅れという代物である。今のままいけば、そして誰も助けてくれないという時代が来る。
 今日、日本の未来については様々のバラ色の御託宣を下す世にときめく経済評論家の人々はそうした事態になったときには、どういう託宣を述べるのか。明らかに日本も含めて地球社会は氷上の乱舞を演じている。どうせ阿呆なら踊らにゃ損で済ませるのか。

根本主義の抬頭
 イスラム・ファンダメンタリズム(根本主義)は、ホメイニによってあっさり白色革命のシャーを葬った。以後、アラブは根本主義を抜きにしてその動向をみることはできない。アフガンは圧倒的な現代兵器(科学兵器・黄色い雨を含む)を駆使するソ連軍を追い出した。ジハード(聖戦)を遂行した反ソ・ゲリラは根本主義者達だ。このアフガンのムスリムの果敢なレジスタンスがソ連側の中央アジアのムスリムに与えた深刻さは量り知れない。アゼルバイジャンとアルメニアの対立は少数民族の抗争ではなく、イスラムとキリスト教または世俗化されたキリスト教ともいえる無神論の共産主義者との宗教戦争なのだ。ソ連はロシア人が主力と日本人は思い込んでいるが、今日では人口から実体はイスラム国といってもよい。その抬頭に危機をみてゴルバチョフはマルタ会談に先立ち、バチカンにローマ教皇を訪問し、幼児期の自分の洗礼についてまで述べたのであった。
 米国におけるキリスト教も根本主義者が着実に増大している。多くはテレビ伝道師の煽動によるものだが、その動向は大統領選をはじめとしてあなどりがたい。根本主義者を敵にまわしては上・下院議員選挙は闘いえない。イスラエルの政治的主流であるシオニストは、米国のキリスト教根本主義者を活用するところに、立国の物理的な根拠をおいている。彼らの殺し文句は無神論・共産主義を背後にしたムスリム軍団とのハルマゲドン(終末・最後の審判)である。
 西暦九〇年代(二一世紀直前の世紀)の地球社会の特質は、根本主義者の抬頭である。なぜこうした運動が前衛化しているのか。それは現代社会を特徴づける産業革命にはじまる世俗化の別表現である近代的な規範への、本能的な拒否である。
 根本主義者は始原にもどろうとする回帰運動である。それは世俗化の進行に対する異議申立である。温故知新という生ぬるい動作を越えて、ラディカルに現状を否定する。この行動に従来の規範で律しようとすれば(それしかないが)既成秩序は脆弱である。

何をなすべきか――青年日本の再生
 世俗化は背後に合理化と効率化を必然とする。近代革命はそれを目的とした日本は、文明開化による富国強兵策をもって独立自存を図った。そのためすべての生活を中央権力の集中により効率と合理化の観点から再編成した。独立の確証を求めれば求めるだけ、復古の精神は見失われていく。
 近代化一二〇余年の今日の成果は、都市化、農業の衰退とうらはらに産業化それもテクノ・エレクトロニクスの偏重または情報産業の巨大化、ついでに大企業の地球化、すべての組織の集中管理(中央化)である。あげくは金融大国となり肉体でいえば頭脳ばかりが異常発達である。
 大和はまほろば、は失せている。西郷隆盛の文明論(南州遺訓)よりも、井上馨の「欧州的一新帝国」が現出した。成果としての強兵は第二次大戦によって総括され、占領憲法下で富国になった。半世紀前に西力東漸に決然と立った強兵が、形勢逆転の突破口の人柱になって草むす屍となり今日の富国が築かれたにかかわらず、現代の日本人は忘れている。英霊を悪しざまに論う知的状況の富国富民がいつまで続くのか。そうした没義道が永続した史実はない。
 私達は維新の精神がどこにあったのか、大嘗祭を迎える今日こそ深く念い定める刻はない。その志向は一人日本の国家利害だけを弁々と考えての行為ではなかった。日本の義を天地の下あまねく伝えることを志とした。地球の運命と日本は同一に捉えられていたのである。(終戦の詔勅「万世太平」の一節を想起されたい)。
 来るべき動乱を乗り超えるには、近代化日本の結実としての経済大国が足蹴にしてきた、地方、「農・工」業、中小企業、この三つが健やかに立脚する方図を明らかにすることだ。その充実から集中権力は分散する。つまりは国の足腰がしっかりしてくる。その上でボーダーレスの地球を視野に入れた戦略を立てて挺身するところに、維新の精神の恢弘がある。それこそが青年日本の再生であり引いては地球のサバイバルに通ずる。以上が平成の御世の我等の目標である。
(「青年日本」第30号、平成2年2月25日発行)

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