ホーム » 史料 » 片岡駿

片岡駿

花房東洋「片岡駿先生のこと─著者紹介に代えて─」

君子の交わりは 淡きこと水の如し
志士の交わりは 濃きこと血の如し

この詞は、片岡駿先生が小生におくられた詞である。
片岡先生と小生の出会いは、今から二八年前に遡る。小生の道の師である三上卓の命を享け、昭和四五年一〇月三一日、「日本再建法案大綱」出版記念会のお手伝いをしたのが縁である。以来、親しく薫陶をうけていたが、特に、三上亡き後の先生との交わりは、師弟というよりも父と子の如くであった。小生の主宰する会合には、どんなに忙しくとも必らず臨席頂いていたし、小生も上京すれば必らずお宅へ伺っていた。愚妻も片岡夫人には、活動家の妻としての心得から梅干しのつくり方に至るまで手ほどきして頂いた。特に、印象に残っているのは、昭和五二年、御夫婦で元旦から三個日、拙宅にお泊まり頂いたときのことだ。夫人は先生の出身地である岡山県津山の雑煮を材料まで持参され、小生ら家族にふるまってくださった。御夫婦には、家族ぐるみで、本当の我が子のように接して頂いていた。

先生は、明治三七年六月二三日、岡山県津山市に生誕された。
大正一五年、上京され「黒龍会」に入門、昭和六年「満州問題解決同盟」を結成、現地特派員として満州に渡られた。張学良将軍の軍事顧問今田新太郎大尉方に寄寓され、昭和七年「満州国協和会」並びに軍政府顧問部の嘱託となられ満蒙工作に従事された。
任務遂行後、帰朝され「大日本生産党」総務や「勤皇まことむすび」中央世話人などを歴任されるかたわら、昭和八年「神兵隊事件」、昭和一六年「平沼国務相狙撃事件」、昭和一九年「東条内閣打倒計画」など果敢なる維新運動を展開されたが、事志と違い終戦を迎えた。
昭和二九年、元満州国資政局訓練所々長の笠木良明氏と共に「国民同志社」を設立、月刊「庶民」を発行、地方自治建設運動を興されるが、昭和三〇年、笠木氏の急逝により解散。昭和四二年「国士内田良平伝」を編著、昭和四五年「日本再建法案大綱」を刊行され、全国を行脚、地方有志の結集に努められた。
昭和五七年一〇月、先生の呼び掛けにより「全国有志大連合」が結成され、その代表者会議並びに総会が、伊勢の神宮会館で開催された。その最終日、昭和五七年一〇月一三日、まさに、先生の悲願結実に向けて展開せんとする矢先、先生は大御心に抱かれるが如く過激なる革命家としての生涯を閉じられたのである。

野火赤く
人渾身のなやみあり

これは、三上卓の句であるが、三上がそうであったように、片岡駿先生の生涯もこの句につきる。他言なし、その真情を想うのみ。合掌。
(片岡駿『史料・日本再建法案大綱 第三巻 解説』)

左から青木哲、片岡駿、三上卓、佐藤武之
(昭和44年、いわき市にて)

君子の交わりは 淡きこと水の如し
志士の交わりは 濃きこと血の如し


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です